昭和47年09月30日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
金光教が出来ましてまだ百十年。ですから何とはなしに、生神金光大神、天地金乃神とお唱え申し上げる、その天地金乃神様も、百十年前に出来なさった神様のような感じがする訳ですね。けれども天地金乃神と申すことは昔からある神ぞと、説明を加えなければならないように、金光教は若いということでございます。それは天地創造、いわゆる天地が出来た時から、その働きを現しておって下さるのが、天地金乃神様なのです。その天地金乃神様のお心の一部を体得したい。
または追求してそして、お心の核心と迄はいかないけれども、ちょっと手前位の所までは、思索から生れた仏教等はそういう感じがします。不思議な不思議な働きが天地の中にはある。その働きをここに結集して表される時に、それを奇跡と言うのである。ないものではない。天地の中にそういう働きがあるのだと、まあ実証されたのがキリスト様ではないでしょうかねえ。
世界の二大宗教、そしてその宗教の中心をとられたキリストとかお釈迦様という方達でも、天地日月の心になる事肝要と言う所迄は、行っておられなかったと言う事です。それがね教祖の実意丁寧神信心が、自ずと天地日月の心そのままであったと言う事。金光教の教祖の信心に奇跡がないと言われております。所謂奇跡がないと言う事は、言うなら不思議な働きです。それは霊験という意味に於ては色々おかげを受けております。
それは金光大神のお取次によって盲が目が開いたとか、ちんばが立ったとかそれはあっとりますけれども。大体に於て金光教の教祖のご生涯というものには、奇跡がなかった只所謂実意丁寧神信心でおありになったという事が生命なんです、金光教のしかも神様のおかげを受けられる様になっては、尚更の事ですけれども。それ迄の例えば御生きられ方というものがです。いかにも天地日月の心をそのまま地で行かれたという感じなんです。人間氏子の事で御座いますから、どこにお粗末御無礼があるやら分からん。
平に平にお許しを乞うておられる、お態度というものまずそれです。人間凡夫の事で、どこにお粗末御無礼があるやら相分かりませずと、それはそういう実意丁寧なお方ですから、もう実意丁寧の限りを尽くされた。例えば金神遊行説というものが大っぴらでまかり通っておる時代。現代でもやっぱそうですけれどもね。そういう時代ですから、ご普請をされるでも増築をされるでも、その事に限ってはもう徹頭徹尾その方法というものを、所謂教祖様の実意丁寧な考えられ方がです。
それをしなさらねばおられない程しであった。それはもう随分と今から考えますと可笑しな話ですけれども。それをなさって金神様にご無礼があっちゃならないというような。例えば、日が悪い月が悪い。今改造してはいけない。それでももう大工から、材木の切り込み迄色々終ってどうにもできない。その時になさっておられる事は、母屋を一時空き家にしておられる。そして小さい小屋に入って、そこには人間が住んでおりませんという事にしてから、それから始めておられると言った様な。
そういう方法しかないと。例えば家相とか地相とか見る専門の方に見て貰って、そう言われるから、言われる通りの事をなさっておられる。それで四十二歳の大患と言う様なああいう難儀な事になって参りました時に、神様に自分の心中を申しておられる事が、いいえ方角は見て建てました。ちゃんとそれだけの事は礼をとってしております、とは仰らずに。人間凡夫の事でございますから、どこにお粗末ご無礼があっておるやら分かりません、という姿勢その態度。
それをなさるという実意さと。そんならそれをなさったからと言うて。もうこれで済んだとは思うておりませんというそういう生き方。天地の親神様もそれをね、後に天地の親神様としてお現れになるいわば金神様が、お前ばかりはもう本当に実意丁寧な、今迄かってこういう心の状態の者は見た事がないという程しの実意さを現してゆかれた。しかもその神様へ向かってそれこそ知って向かえば命を取り、知らずに向かうても目を取ると言われる程しの、霊験働きというものを持っておられる金神様に対してでもです。
できるだけその金神よけでもしてから、もう出来るだけ触らぬ神に祟りなしという生き方で行く人が常であったのにも係らずです。教祖様の一番素晴らしい所は、その金神様へ向かって、平に平にお許しを乞われながらです。接近されたという所等は、もう本当に素晴らしい事だと思うですね。お話をすればたったそれだけのなんですけれども。その時分の例えば、金神様の御威光というものは大したものに皆が感じておった訳です。知って向かえば命を取るという七殺金神ですかね。
知らずに向こうても目を取ると言われる程しの、例えば神様。そういう例えば働きを持っておられる神様ならば、その目を下さる事も出来るだろう。また命を下さる事も自由に出来なさる神様に違いはないとして、只お粗末ご無礼なところをお詫びしぬいておいでられたという事。難儀な事が起ってくれば、自分のお粗末御無礼として、お詫びをしてゆかれる。そして少しでも、おかげという事になったら、それを大変な思いで、それを御礼を申しておられる。
例えばお子様が揃うてほうそうにかかられた時がそうであった。そういう信心の手厚いお方ですから、もうそれこそ、どこの神様どこの仏様と言うておすがりになった、信心が手厚いお方ですから。ところが養生のかいもなしに、お一人が亡くなられた。けれどもおかげで、一人のお子さんの方は、床上げが出来るほどの全快のおかげを頂かれたという時に、とっておられる教祖様のご態度というものは、一人の子供の亡くなった事はです、何処までも私の信心の不行届きとしてお詫びをしておられる。
そして助けて頂かれた子供さんの事は、それを全部神様あなたのおかげで、と御礼を申し上げておられる。ただ御礼を申し上げるだけではない。その時近所の神主を呼んで、ほうそうの厄祓いをするお祭りをなさっておられます。それに対して、相当の金額とお米をお礼にお供えさせて頂きまして、おかげで助かりましたと、こう言うておられる。一人亡くなった方のは私の信心の不行届きとして、お詫びをしておられる。もうこの辺になります時にですね。
成程こういう例えば実意さというようなものが、他の誰彼に、たったそれだけの事なんですけれども。教えられてからではない。そういう心の状態をいつも持っておられたという事。これはお釈迦様でもキリストでも、そういう実意の事は、なら、お釈迦様の伝記の中にもないです。キリストのお話の中にもないです。ただ普通の人間が、普通の人間生活をする、その生活の中に、そういう実意丁寧神信心というものが、もうにじみ出らんばかりに、それを感じられるのです。
そこのところを、いわゆる天地日月の心というものをです。備えておられた、ご性格の中に。そこに天地金乃神様の、もうぞっこん惚れ込まれたという感じが致します。そこからまた洗練された、お鍛えを受けておられるのですから、もういよいよ言うなら完璧、天地金乃神と同根なり。天地金乃神が金光大神に向かって一礼申すとまで仰せられる程しのことになっていた。だから天地金乃神様と言うのはです。もう何千年も何万年も、言うなら何億年かもしれない、その昔からある神ぞである。
けれども、その自分の思いの全てを吐露して迄に、人間に頼れるという程しの人物は現れなかったと。そこで私はもう教祖様のようなお方が、もう後にも先にも、このような方が現れなさるはずはないと思うのです。しかも天地金乃神様、その教祖金光大神の、そのような実意丁寧な神信心。言うなら天地日月の心という事は、天地の心を心としてということです。天地金乃神様の心を心として、人間生活の上に現してゆかれる。そういう実意丁寧な生き方、在り方というものをです。
人にも伝え人にも聞いてもろうて、こういう生き方にならせて頂かなければ、人間の真実の幸福はありえないんだという事を、皆の世界総氏子に、教え伝えてくれというのが立教神伝の真意、真義だと思います。なるほど天地は流行る事もなければ終る事もない。何億年という、まあこれは天文学的な数字になりますから、まあ数じゃないですけれども。天地創造以来の、言わば神様がです。人間氏子との関わり合いという事に於てです。ある氏子は一生懸命に考えた。
考えて考えて考え抜いた挙げ句に、その近所までくらい行けたというのがお釈迦様の考え方なんです。菩提樹の下にじっとお座りになって、そして悟りを開かれたと、こう言うのです。思索の中から。キリスト教を信ずるという事は、キリストの処女受胎と言う事を疑うたら、キリスト教はもう成り立たないと言われておる程しです。ですからそれが事実であったとしても、そういう例えば事実がです。
天地金乃神様の例えば、もうこの氏子こそ全てを打ち明けてもよい、氏子をお育てになる為に、キリストもおありになられたと言うてもよいかもしれません。ところが案に相違し只奇跡的ないつもキリスト教史を見ますと、もういつもが言うなら戦争の続きである。いつも戦争しておる。そして只奇跡を表すという、その霊能者としての素晴らしさは、もう言うならば世界中にたくさんおられた宗教者、の第一人者ではあんなさるだろうとは思います。それは例えば、真言密教の弘法大師もそうです。
色々お話にあります様に、山の中腹まで登られると大変喉が乾かれた。そこに一軒の家があったからそこで水を乞われた。所が「ちょっとお待ち下さい、冷たいお水を差し上げます」と言うて、谷底までも降りて弘法大師に水を捧げられた。その真心にです弘法大師が感じられた。そしてそこに杖を立てられると、そこから水が湧いて来る様になったと言う様なね。まあ日本では弘法大師が一番そういう奇跡をお現しになった方でしょう。栗が瞬く間に石になったと言う様なね、石栗なんていうのがあります。
ですからそういう例えば魔術のような、手品のような例えば事を実際に出来るという事をです。あらゆる難行苦行で体得したという人も沢山ある訳です。けれどもだから金光教の教祖の信心には奇跡がないというのはそれなんです。もう只々実意丁寧神信心。今日の御理解で言うなら、愈々天地日月の心を心としてというものの生活でおありになったという事。だから金光様の御信心はどうしてもです。
実意丁寧神信心を頂かせてもらう為に、信心辛抱実意丁寧神信心と続けて、それを頂いてゆかなければ、本当のおかげにならない事が分かります。いよいよ本気で天地日月の心になる事を肝要として、日頃生活してゆかねばいけんのです。その為に天地日月の心とは、そのまま天地金乃神様のお心なのですから。そのお心を御教えによって分からせてもろうて、そのお心に添い奉ろうという姿勢を私どもは作らなければいけない。
昨日は、教祖生誕祭でございましたから、いつものように、年ごとの例になっておりますから、七十歳以上のお年寄りの方達をお招きをして、言うならお年寄りを中心にしてのお祭り。それも、年寄りは長く生きとるというだけじゃない。それだけ世の中の為に、役に立っておるようなものであるから、年寄り大事にせいよと教えておられる、と言わねばならん程に、年寄りは粗末にされておるという事ですよね。
普通で言うと。だからそういう意味で、年寄りを大事にせいよと仰るから、せめて教祖のご生誕のそんならお祝いを申し上げるのに、やっぱり教祖様のお喜び頂けるような事をしょうというのが、椛目時代から。そんならお年寄りをささやかでも楽しんでもらおう喜んでもらおうというのがそもそもの始まりでした。大した事は出来んに致しましても、まあ皆で真心込めて。そしてまあ演芸でも昔は信者さんが全部で踊ったり歌ったりしてから、したもんですけれども。
段々芸能者の方を雇うて、浪花節を聞いてもろうたり踊りを見てもろうたりと言う様な事に段々なってきたのです。その事のお礼をです。私は昨日昨夜遅うここへ出て来て申させて頂いておりました。もう皆に大変喜んで頂いて、皆さんの真心いっぱいの奉仕を受けられて、まあおかげを頂きましたんですから。そしたらねやっぱり敬老会があっておるんです。それがもうポツンポツンと座っておられて、もうお広前全体の雰囲気というものがもう、実に寂しい寂しい雰囲気をご心眼に頂いたんです。
あれ程例えば賑やかに、もうそれこそ芸能者の方達ももう、昨日も言っておられましたが、ここでのごと調子が出た事はありませんと言われる位にです、皆の真心がそういう風に、持っておられる芸を十分に、発揮できるような雰囲気を作ったほどしに、言うなら有り難い雰囲気でした実際は。けれども神様の目から御覧になるとです。もうそれこそお膳はこうしてあるばってん、ポツンポツンと座っておられると言った様な、まあ感じが寂しい寂しい感じの生誕祭であった。本当に相済まん。
例えば今日、私が聞いて頂いております教祖金光大神という方がそのような御方。神の心を心として、しかも神の依頼を受けられて、そしてその事を、世界の隅々に迄です。世界総氏子に取次ぎ助けの御用をして下さろうとする。しかも前代未聞、こういう方は後にも先にもなかろうというほどの方。昨日私が、敬親会の方達にも聞いて頂いたようにね。このお祭りが世界中の者が、総氏子が、今日という日をお祝い申し上げられるような事になってくる事を、私の願いと致しております。
それを「和賀心時代を創る」と言う様な、言うならば運動を合楽教会では展開しておるのですという事を聞いて頂いた。それ程しの事がです。例えば合楽でそういう事が分かっておるはずの私どもがです。生誕祭ちゃ年寄りだけじゃけんでというごたる風で、もう日頃月次祭にお参りしておる者ですらが、お参りをしていないという事はどうした事かという事です。この教祖の神様のご生誕がなかったなら、私どもの今日はありえないと迄、思われる程しの例えばお祭りをです。
只、年寄りに任せるといったような、今日は年寄りの集まる日だと言った様な、只普通で言う敬老会で終ったんでは。成程教祖金光大神様に対して相済まんこと。それは教祖の神様としては寂しい寂しい思いをなさった事であろうという事なのです。まあここのお祭りが大祭ということが最大のお祭りであるならばです。成程大祭に準じたお祭りでなからなければならない。そういう思いが結集されたお祭りでなからなければならない、という事を、夕べ教えて頂いたとこう思うのです。
これからお互いひとつ本気で私どもも、教祖様の御教えを頂いて、天地日月の心になること肝要とおっしゃるそこのところの、信心を本気で身につけさせて頂いて、そこで天の心とはどのような心か、地の心とは、そして、日月の心とはどういうような事か。それはそのまま、教祖様の御生きられ方そのままが、天地日月の心になる、という事になるのですけれども。それをまた噛み砕くように、具体的にです。天の心とは与えて与えてやまない美しい心だと。与えて与えてやまない美しい心だと。
地の心とは、例えば、成り行き行きを大事にする。御事柄として受けて行く、というどのような事であっても、大地の心のように、大地の姿のようにです。もうどのようなものであっても受けて受けて受け抜かせて頂こう、というそういう心。日月の心とは、それこそ寸分の間違いのない、日々の働きの中に、です。それこそ正確無比の働きを現して下さるのが日月の心。そこんところを実意丁寧神信心。実意丁寧、もうよかよかと言ったような事じゃないんです。
例えば、下駄を脱いで上に上がらせて頂く、時です。ちょっと下駄がこうやって乱れとったっちゃ、もうよかよかすぐ降りるのじゃけんといった事じゃないという事。やはり、上がる時からきちっと揃えて上がるというような行き方。もし乱れておるならば、それをちょっと手を添えてきちっとしていくと言う様な、それが生活の全般の上にそういう事が表れてくる程の生き方なんです。そういう事は、教祖様の御伝記の中にはいくらもあります。そういう生きられ方。税金を納める。
それこそ誤魔化してからでもというのが普通の人間。それを税金が来るとそのまま黙って払われたというだけではなくてです。今年はおかげでたくさん取れたと、例えばお米が、だから取れた分だけはそのまま余分に上納しておられますね教祖様は。とてもとても、たったそれだけのことですけれどもね。その事だけを教祖様の真似をしょうという事はできましょうけれども。人間としてはそういう生きられ方というものは、とても大変な事だと思うです。そういう例えば生きられ方こそが日月の心なんです。
誤魔化しがない。そこで私共は一日を締め括って見て、あそこもお粗末、ここも行き届かじゃった。御無礼であったというところを、詫びて詫びて詫び抜かせて頂いてです。詫びれば許してやりたいのが親心という、その親心にすがっていくという生き方をさせてもらわなければならんのです。天地日月の心になること肝要である。昨日西岡さんから手紙が来とる。今ご祈念前にちょっと読ませて頂いた。その中に「今度の入殿は年令別に集会が持たれ、自由に発言が出来た。
学院に復帰いたしましてすぐ、入殿のおかげを頂き、教話と共励感話会と、ぎっしりと詰め込まれました。最後の全体会議の後評の折に、前学院長佐藤博敏先生が総評をなさいました。「学院生の大坪幹三郎君が初めの入殿の時、何が何だか全く分からなくなりましたと言っておりましたので、その後の成長を楽しみにしていましたので、この入殿の折、会別懇談会の時、その心境を尋ねましたところ、今度の入殿は年令別に集会が持たれ、自由に発言ができた。自由に話題を捉える事が出来ました事は。
変に楽しいものに思われました。信心の事につきましては、ただ今修行中という心境です」と答えてくれました。只今修行中という言葉はいかにも学院生らしく、鮮やかなキャッチフレーズです、と。それから、学院では、只今修行中という言葉が一時流行致し、何かにつけて使われました。幹三郎君という人はそういう何とも言えない楽しい、ムードを作ってくれ、なかなか私にとりましても楽しい入殿でございました」と。兎に角金光様の先生を目指して行ってから、兎に角初めての入殿の時にもう。
それこそこれが神様を求めて入殿したものであろうか。中には大学生もおれば、色んな詳しい方達も沢山おる中にもう戦々恐々。只討論会で終ったそれに感じて幹三郎が皆さんの話を聞いておったら、もう信心が何が何だか分からなくなったと言う事を言った。だからそん時に博敏先生が、それが本当だと。何が何だか分からなくなった。そこから分かっていく事だという事を仰ったという手紙がその時来ておりました。だからその後の幹三郎君の信心の成長を楽しみに、是は前学院長佐藤博敏先生が幹三郎君の信心の成長を楽しみにしておったら。
この様な発表をしてくれました。そして最後にとにかく「ただ今修行中ですから」という、学院で流行語になる、何かにつけて「ただ今修行中だ」と言った様な事でした、と言っております。また実際にまた「只今修行中である」と言う様な信心をしておらなければ、こう言う様な事は言えないと私は思うのです。お互いがです只今修行中。そして何を修行しておるのかという事なんです。参る事も拝む事もそうですけれども。言うなら天地日月の心になる事肝要であるという事に焦点を置いての。
信心修行であり、その事の修行を日々あらゆる生活の現場から、その現場を通して、私は修行させて頂くならばです。天地日月の心がだんだん自分のものになっていく。だんだん分かっていく。そしてそこに約束されるおかげを現していく事が出来ると思うのでございます。どうぞ今日は「天地日月の心になることかんようである」ということと、天地金乃神様のここと、教祖金光大神の独壇場であるところの実意丁寧神信心が、このようにつながっておるという事を聞いて頂きましたですね。
どうぞ。